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2006年 07月 13日
本日より『三陸新報』に六ヶ所村ラプソディー上映会+半造星まつりの案内として「「ヒバクシャ」であることの視点」を掲載する。3回連載で、まず2回分をHPにも掲載した。3回目では、半造星まつりを紹介する予定である。
「六ヶ所村ラプソディー」を地元紙に紹介するために、彼女がなぜこの映画を撮ろうと思ったのかを調べてみた。彼女の著書である『ヒバクシャ』(影書房)にその経緯や思いが綴られているのだが、彼女の問題意識の深さと本質を見極める眼の確かさには感心してしまった。 また、肥田舜太郎医師との共著『内部被曝の脅威』(ちくま新書)には、あらためて自らの認識不足を思い知らされた。この本を読むと、誰もが放射能の「ヒバクシャ」であることを避けられない、そんな時代に生きていることに愕然としてしまう。 広島・長崎の被爆者、劣化ウランの放射能に被曝したイラクの子供たち、再処理工場を受け入れている六ケ所村の人々。だが、彼らだけが「ヒバクシャ」なのではない。そのことに私たちはあまりにも無自覚である。 鎌仲ひとみが映画を通じて伝えたかったことは何か、ようやく見えてきた。 彼女は、大地に生きるすべてのものとの調和を「命の円環」と呼ぶ。だが今、その大地は放射能に汚され、「まったく位相の違う円環を描いてこの世界を覆っている。核のサイクルがそれだ。それは自然の調和がもたらす命の円環の対極にある死の円環と呼べるものだ。」 この死の円環から、再び命の円環に戻ることはできるのか。それを探る旅を、映画という手段を通じて、彼女は続けているのだろう。 不思議なことに、そんな彼女の思いに応えるように、半造星まつりを主催する熊谷もんから連絡が入っった。今年の星まつりで六ケ所を取り上げたいという。星まつりは今年で3回目だそうだが、もんという人物もそのような祭りがあることもまったく知らなかった。 突然の申し出に驚いたが、嬉しい予感もあった。早速、もんのもとに赴き、ここで初めて出会う。当初は、私にワークショップの一つとして六ケ所のことを話して欲しいということだったが、話しをしているうちに、ストップロッカショ・カフェを開くことになってしまった。 鎌仲監督も、16日は先約があったのだが、予定を変更して参加するという、これまた嬉しい知らせ。もんは彼女を交えてシンポジウムを行なうことにした。テーマは「あかるいきざし」!だ。これはもんの歌の題名でもある。歌詞を紹介しよう。 あかるいきざし そらをみて ながれる 雲のすがた知る とりはうたい めぐる いのちのうた ほしはめぐり 月もめぐり またあすはくる ひとびとが しにたえても またあすはくる よあけまえの あかるいきざしがなんともいえない そらをみて やまをみて あーきれいだな とりはうたい やまもうたう いのちのうた つきはひかり あおく 澄みわたる空 わたしがかわれば すべてはかわる よあけまえの あかるいきざしがなんともいえない もん自身の解説によると、 この歌についてあまり解説しちゃうとヤボなのですが、 宇宙はよりよき明日へと億万光年の未来永劫まで続いているということ。 宇宙の大丈夫。 いわゆるフォトンベルトのお話とか、この世とあの世をこえちゃうような できごとによってしか浄化し得ないような、この人類の深い業に哀愁を まじえて ”なんともいえない”とうたっているのです。 自然界はすでに楽園そのものであるのにもかかわらず。 あかるいきざしがなんともいえない。 というわけで、「命の円環」と「宇宙の大丈夫」がコラボレートしてしまった。 説明はもういらないだろう。とにかく、なんといえない「あかるいきざし」を楽しんでいただくことにしよう。
by sophia_forest
| 2006-07-13 09:29
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